- 2013-12-25
- ツイート
フロントランナーvol.29
江戸の科学技術は世界水準!
ものづくり日本の原点を見直そう
国立科学博物館科学技術史グループ長 鈴木一義
1957年生まれ。東京都立大学(現・首都大学東京)大学院修了。メーカー勤務を経て、87年、国立科学博物館に。専門は科学技術史で、江戸時代から現代にかけての科学技術の発展過程を研究している。世界文化遺産委員、ものづくり日本大賞選考委員。『からくり人形』『あっぱれ! 江戸のテクノロジー』など著書多数。
日々変わる時の長さを自動調節する時計
かつて、日本の技術は「欧米のもの真似だ」と揶揄されていた。加えていま、お家芸と呼ばれる産業が新興国の追い上げにあっている。自信をなくしつつある私たち日本人。しかし、その必要はまったくない。日本の科学技術の底力にはすごいものがあるからだ。とくに江戸時代は世界最先端に満ち溢れていた――。江戸のサイエンティスト・テクノロジストたちは、どんなすごいことを成し遂げ、どのようなものを生み出したのか。国立科学博物館の鈴木先生と一緒に見ていこう。
明治以前の日本に、みなさんはどのようなイメージをもっているでしょう。「文明開化」の前、しかも鎖国で技術や学術の情報が入ってこないから、ヨーロッパなどに比べたら劣っていただろう、と思われているかもしれませんね。しかし、当時の識字率(読み書きができる人の割合)は8割ともいわれ、こんなすごい国は日本以外どこにもありませんでした。当時は和算といった数学も、一般の庶民が日常生活で活用していました。高等数学の問題を、パズル感覚で解くといった文化も日本にはあったくらいです。技術の面でも学問の面でも、決して遅れた国ではなく、むしろ独自に発展を遂げた「進んだ国」だったのです。
今日は、みなさんに江戸時代に活躍した6人の科学者・技術者をご紹介しようと思っています。同時に、江戸時代の叡智が現在の日本にも息づいていることも知ってもらおう、と考えています。前置きはこれくらいにして、さっそく江戸の科学技術の世界にご案内しましょう。まずは、田中久重(1799~1881)に登場してもらいます。
田中久重は江戸後期の人。「からくり儀衛門(ぎえもん)」とも呼ばれたからくり技術の名手で、さまざまな製品を世に残しました。からくり仕掛け、なかでもからくり人形はロボット技術のルーツとみることもできますから、日本が世界有数のロボット大国になれたのも、久重たちからくり職人のおかげといえるでしょうね。
その久重がつくったもののなかで、最も注目されるのが「万年時計」(下の写真)です。七宝や彫金が施された絢爛豪華なこの時計は、「江戸テクノロジー」の最高峰とも称されています。6角柱をしており、6面それぞれに和時計、洋時計、カレンダーなどの機構が埋め込まれています。上の半円のガラスの中はプラネタリウム(天球儀)です。1年に1度ゼンマイを巻けば、ほぼ正確に時を刻み続けるという優れもので、久重は高度な天文学の知識と、優れた技を駆使してつくり上げたのでした。
驚嘆するのは、和時計の機構です。いまでは世界中どこにいっても時計の針は同じ速さで動きますが、江戸時代の日本は季節によって昼と夜の時間の間隔が違っていました。これを「不定時法」というのですが、日本では1日を昼と夜に分け、それぞれを6等分して1刻(こく)としていました。たとえば、冬は昼よりも夜のほうが長いですよね。すると、夜の1刻は昼の1刻より長くなる。夏なら逆。夏至のころの1刻は昼が165分、夜が75分と2倍以上も差がありました。常に変化する1刻の長さを「自動的」に調節することがどれほど難しいか、みなさんも容易に想像できるでしょう。この難問を、日本の時計職人たちは二丁天符(にちょうてんぶ)のようないくつかの工夫により克服しました。さらに田中は、工夫に工夫を重ねて、和時計、洋時計、プラネタリウムほかすべての機構を連動させることに成功します。ここまでくれば、「あっぱれ!」としか言い様がありません。
ちなみに、昼と夜の1日2回、おもりの位置を変える“手動式”の和時計は田中以前にもあり、広く普及していました。一方、ヨーロッパ諸国は機械時計が発明されたしばらくのち、宗教や支配層が率先して不定時法から現在の定時法に切り替えました。それまでの自然に合わせた生活のリズムを機械時計に置き換えた。タイムイズマネーの時代、機械に人間が合わせる時代が始まったわけです。
中国や日本にも西洋式機械時計は入ってきましたが、農業国であるため用をなさず、中国の皇帝らは清朝時計として、徳川家康も江戸城に時計の間をつくり、飾りやおもちゃとして扱うしかありませんでした。ところが、技術の大衆化が始まっていた日本では、当時の最先端技術である機械時計を一部階級のおもちゃとしてではなく、実用の社会が利用できる和時計として普及させていったんです。生活のスピードに合った時の刻み方を維持しつつ、それに基づいた時計が生み出され普及した日本と、機械に合わせて時の刻み方を変えたものの、機械自体は権力者しか持つことがなかった西洋。みなさんは、どちらを「すごい!」と思いますか?
久重は維新ののち、電信機や電話機の製造する会社を起こし、それは現在の「東芝」につながっていきます。その東芝が所有する田中の万年時計はいま私の勤める国立科学博物館で展示中。ぜひ、一度、実物を目にしてください。
鉄砲鍛冶がつくった世界水準の天体望遠鏡
次に登場するのは国友一貫斎だ。歴史好きの人ならピンと来るだろうが、鉄砲の里とも呼ばれる近江国・国友村(滋賀県)の生まれ。一貫斎も鉄砲鍛冶として名をはせた。その彼が、あるときオランダ製の反射望遠鏡に接する機会を得た。家督を息子に譲ったのち、彼は独学でその制作に取り組んだ。そして、1年の後にでき上がったものは……参考にした望遠鏡より2倍も大きく見えるという、極めて優れた性能をもつものだった。
暦(こよみ)は、私たちの生活に欠かせないものです。さらに、国の行事や祭祀(神や祖先を祭ること)とも関係するため、洋の東西を問わず暦づくりは重要な国家事業とされてきました。ところが、日本では唐の時代につくられた中国の暦を800年もの間、ずっと使い続けてきたのです。そのため、実際の日時との差は2日にもなった、といわれています。2日というのはかなりの差ですから、いろいろ支障が出ていたでしょうね。それを解消する、初めての日本オリジナルの暦が1684年に採用された貞享暦。それを完成させたのが、のちに幕府の天文方となった渋川春海(1639~1715。映画にもなった『 天地明察』の主人公)です。春海は進んだ計算法や観測の手法を学び、自ら天体観測を行った、といいます。数多くの星も発見しました。春海もまた、江戸を代表するサイエンティストの一人といって間違いありません。
この春海が亡くなって100年ほどのち、国友一貫斎(1778~1840)が国産初の反射望遠鏡を制作に成功します。一貫斎も日本の天文学の発展に大きく貢献した人です。
反射望遠鏡とは、2枚の鏡を使って星の光を集めるタイプの望遠鏡です。一般にはレンズだけを組み合わせた屈折望遠鏡が知られていますが、性能のよさや、大きな望遠鏡をつくることができるなどのメリットから、本格的な天体観測には反射望遠鏡が多く使われています。一貫斎がつくった「グレゴリー式」と呼ばれるものは、2枚の凹面鏡(おうめんきょう。放物線を描くように中央がへこんだ鏡)を使用。望遠鏡の性能を左右するのがこの鏡の出来で、一貫斎がつくった鏡のそれはまさに「脅威的」でした。
鏡は金属製で、錫と銅からつくられています。お寺の鐘に使われる青銅と同じ合金ですが、一貫斎の合金はガラスに近い特殊な合金でした。詳しくは述べませんが、この合金の製造法はいまの金属工学でも最先端を行くものなんです。専門の業者でも、同じ合金をつくるのに1年を要するくらい加工難度の高いものだ、といわれます。そんな難しい技術を、一貫斎は独力で身につけた。加えて、驚くべき精度で鏡の表面が磨かれていました。そのため、180年経ったいまでも輝きを失なっていません!
一貫斎のすごさはこれに止まりません。彼は自分でつくった望遠鏡を使って天体観測まで行い、膨大な記録を残しました。天体観測の知識や技術は、さまざまな研究者や知識人と交流することで取得した、といわれます。太陽については、黒点の連続観測を行い、黒点の位置や数、大きさなどを克明に記録しました。月の観測では、クレーターの微細な形状を書き留めています。金星や木星、土星の観測記録も残っています。
鉄砲鍛冶だった人間が、天文学の世界にも大きな足跡を残す。一貫斎にも「あっぱれ!」と言ってあげましょう。
温故知新がいまこそ重要に
このような優れた技術が生まれた背景には、「平和が長く続いたことが大きい」と鈴木先生は指摘する。争いがなかったため、江戸時代の知識や技は、社会のため、人のために使われるようになったのだ。また、多くの人が「読み書きそろばん」ができたのも平和のおかげだ、という。鎖国という制約はあったものの、高い教育レベルが知識や技術に対する好奇心を生み、それがまた新しい知識や技術を生み出したのだった。
久重や春海、一貫斎以外にも、すごい人たちはいっぱいいます。ここからは少し駆け足になりますが、簡単に彼らを紹介していきましょう。
まずは数学の関孝和(1642?~1708)です。日本の算術(和算)は西洋の数学とは違った形で発展したのですが、レベルは西洋の数学に引けをとらない。なかでも関は傑出した算術家でした。たとえば、円周率。円周率の求め方はアルキメデスの時代から知られており、円に内接する正多角形の角の数を増やしていき、その外周の長さを求めて近似値を出していくという方法が取られてきました。関も同じようなやり方で正13万1072角形から小数点以下10桁まで正確に求めることに成功(求めたのは11桁で、正確を期すために最後を四捨五入した)。これは当時の世界水準に匹敵するものでした。
次に、伊能忠敬(1745~1818)。商人だった忠敬は、隠居後に天文学の研究に取り組み、『大日本沿海輿地全図』の編纂を成し遂げます。当時の地図としては、まさに世界最高レベルでした。医学の世界では、華岡青洲(1760~1835)を真っ先に上げなくてはいけません。紀伊国(和歌山県)の開業医だった青洲は、漢方中心の当時の伝統医学と蘭学による医学を融合させ、次々と独自の治療法を編み出しました。なかでも特筆すべきは、世界で初めての麻酔による手術の成功(乳がんの手術)です。それに使った麻酔薬も青洲が独自に開発したものでした。
その他、本草学(薬物についての学問)では、「こんな薬草がこのような病気に効くといった本」が数多く出版され、庶民にまでいきわたっていました。徳川光圀(=水戸黄門)が尽力し、編纂した家庭医学の本を領民に無料で配るといった事業も行われています。ちなみに、江戸期を通じて最大のベストセラーが何に関するものだかわかりますか? 実は数学書(『塵劫記』=じんこうき)なんです。日常生活に関する数学の本で、「各家庭にあった」とさえいわれています。こんな国は他にはなかったでしょう。土木や建築なども世界水準。世界水準の分野をあげれば切がありません。だからこそ、明治になって一気に世界に追いつき、また追い越せたわけです。日本の科学技術に底力があることがおわかりいただけたでしょうか。
さて、こうした江戸時代の科学や技術に、私が興味をもったのは大学生のときでした。機械科に所属していたのですが、仲間と一緒エンジニアとしての自分たちのルーツを探そうとなって、からくり人形の製作に取り組んだのがきっかけです。茶碗を乗せたら、人形が動き出すという人形ですが、江戸時代の職人たちの知恵と工夫に本当に驚かされました。「目からウロコ」というのは、まさにあのような体験を言うのでしょう。
「大事なのは未来を見据えること、過去を振り返ってどんな意味があるのか」などという意見もありますが、私はそのようには思いません。むしろ、グローバル化が叫ばれているいまだからこそ、日本がどのような国だったのかを知ることの重要性は増している、と考えています。たとえば、江戸の技術は遊び心に満ち溢れていました。それは現代にも通じるところがあるでしょう。また、「己を語れない人」に、世界の人たちは尊敬の目を向けてはくれないものです。いまくらい温故知新が大事な時代はない。ぜひ、みなさんも実践してください。期待しています。
《文=WAOサイエンスパーク編集長 松本正行》