• 2013-05-20

フロントランナーVol.15

蚊が血を吸うメカニズムの解明から
世界で一番痛くない針の開発に挑戦

関西大学システム理工学部 教授 青柳 誠司

1962年生まれ。東京大学工学部卒、同大学大学院工学研究科修士課程修了。88年金沢大学工学部助手、95年同助教授。96年関西大学に移り、2003年より工学部教授。07年より現職。02年にはカリフォルニア工科大学の客員研究員も務めた。専門は精密機械工学、ロボット工学。マイクロニードルの開発(蚊を模倣した痛みの少ない注射針の開発)のほか、ロボット用情報処理(人工知能など)にも取り組んでいる。

蚊の針が痛くない仕組みとは?

「病気になったら学校を休むことができるけど、チクッと痛い注射はイヤ! 痛くない注射針があったらいいのになぁ」。小さいころ、そんなふうに思った人は多いだろう。しかし、針で刺す痛みをなくすことは容易ではない――。多くの人が解決を求めてやまない、この難問に挑戦している研究者の一人が関西大学の青柳先生だ。青柳先生が注目したのは「蚊」。その吸血メカニズムをヒントに無痛針の研究に取り組んでいる。蚊はどのように血を吸っているのか、青柳先生はどんな注射針を生み出そうとしているのだろうか。

 きっかけは、ある大学の先生との雑談でした。「蚊をマイクロマシンにしたら面白いんじゃないか?」って。もともと私はロボットが専門で、いまはロボットの観点から小さな機械の開発に取り組んでいます。昆虫は身体は小さいのにすごい力をもっている。マイクロマシンの研究者にとっては魅力的な存在。だから、「なるほど、蚊ね・・・・・・」と最初は痛くならない針などとは考えもしなかったのですが、調べていくと面白くて(笑)、引き込まれていった。
 みなさんも不思議に思うでしょ? なぜ、蚊に刺されても痛くないのだろうか、って。実は、そこには驚くべきメカニズムが隠れていたんです。まずは、それから説明しましょう。
 実は、蚊の針は1本ではありません。1本に見えるけど、上唇(じょうしん)、下唇(かしん)、咽頭(いんとう)、そして大顎(おおあご)と小顎(こあご)が2本ずつ、計7本で成り立っていて、それらを駆使して血を吸っているんです。なかでも重要なのが上唇と小顎の3本。下の図を見てください。真ん中にあるのが上唇で血を吸う部分です。そして、上唇の両側に小顎があります。小顎はノコギリのようにギザギザになっているのがわかりますか? このギザギザも痛みの軽減に役立っています。ギザギザの先しか皮膚に触れないので、その分、抵抗が小さくなりすっと刺さりやすい。さらに、この3本が連動し動くことで、痛みをやわらげています。
 まず、小顎の1本を突き刺しながら上唇を引きます(①)。次に、上唇を突き刺しながら、2本の小顎をともに引く(②)。今度は、①とは逆の小顎を突き刺しながら、上唇を引きます(③)、そして最後に、両方の小顎を引いて、上唇をぐっと突き刺す(④)。この一連の動作を1秒間に2~3回繰り返しながら前進しています。加えて、咽頭と呼ばれる針から唾液を出して血液が固まらないようにし、時間をかけて上唇から血を吸っているんです。
 ここで、「単純に針を細くしたほうが痛くないのでは?」と疑問が湧いたかもしれませんね。たしかに、細ければ人が痛みを感じる痛点を避けやすい。しかし、細いと折れやすく蚊にとっては危険なんですね。それと、先ほどの3本の針を出し入れすることで、単純に3本の針の合計と同じ断面積を持つ1本の針を刺すよりも少ない力で刺せることが、私たちの研究でわかってきました。だから、このメカニズムが最も都合がいいわけです。ちなみに、血を吸うのはメスだけ。卵を成熟させるため、いまのように進化したと考えられています。子孫を残すためとはいえ、こんな複雑で効率のよいシステムを作り上げるなんて、ほんとうに自然の力には驚かされます。

(蚊が人間の皮膚に針を刺す様子)

自然の力は人間の創造を超える!

「蚊が生み出した仕組みを、人間が自分たちの頭だけで考え出すことは難しい」と青柳先生は言う。実際、自然の力は人間の想像をはるかに超えており、そこから生物がもつ特殊な機能や不思議な能力を利用する「バイオミメティクス(生物模倣)」が近年、注目されるようになってきた。有名なのは、サメの肌に似た構造を採用してスピードを速めた競泳の水着だろう。カタツムリの殻がいつもきれいなことをヒントに、特殊な外壁材が生み出されたりもしている。青柳先生と共同研究を行っていた企業も蚊の針を模倣した「糖尿病患者向けの注射針」を開発・販売し、実際に患者に利用され始めている。

 研究を始めた当初、10数年前のことですが、この段階ですでに蚊の針の構造はわかっていました。昆虫学や衛生学の人たちの先行研究があって、小顎がギザギザ構造をしていることも明らかでした。ただ、蚊が針をどのように刺しているかはわかっていない。ここが解明されないと研究は始まりません。しかし、言うはやすし行うは難しで・・・・・・。何しろ蚊の針は細いんです。髪の毛の太さが0・1ミリ程度なのに対して、上唇は直径0.03ミリ、小顎は0・015ミリしかありません。肉眼ではなかなか見にくいうえ、高速で動いている。しかも、皮膚に入った部分は見えません。さてどうするか?
 ここが大学の研究、なかでも工学の研究の面白いところなのですが、何とか自分たちできるよう工夫するんですね。それこそ、学生も含めた研究室のメンバーが侃々諤々、意見を出し合って、何とか撮影にこぎつけた。1秒間に1000枚撮影できるカメラと観察対象を100倍にまで拡大できるレンズを組み合わせた装置も作り上げました。見えにくい皮膚の部分は寒天を使ってみたり、おびき寄せるために温度や二酸化炭素の濃度を調整したり・・・・・・。蚊を育てるのも大変でしたね。適切に世話をしないと蚊は死んでしまいます。いまはみなさんもよく知っている殺虫剤メーカーから、観察が必要なときに研究用の蚊を提供いただいていますが、とにかく失敗の連続。忍耐強く、少しずつ研究を前進させていきました。
 そうした苦労の結果、先の①~④のような動きをしていることがわかったんです。蚊が針で刺す、その瞬間を高速度カメラで鮮明に撮影した映像は世界的にも貴重だと思います。

※蚊が針を刺すときの様子は「青柳研究室のサイト」内にある「高速度カメラによる蚊の穿刺行動の観察」で見ることができます。

 さて、先ほど小顎がノコギリのようにギザギザになっていることをお話しましたが、ここに着目した企業が関西大学との共同研究を経て、糖尿病患者向けの注射針を開発しました。糖尿病の患者さんは全国に約2000万人もおられますが、彼らは1日に何度も、指先などに注射針を刺して血を出し、血糖値を測定しなくてはいけません。小さなお子さんも多く、少しでも痛くない注射針が求められていました。この新しい注射針は、仮に折れて体内に残っても溶けて無害な樹脂(ポリ乳酸)でできています。ギザギザ構造と金属でない樹脂のおかげで、痛みを軽減することができ、患者さんやお医者さんの評判もよいようです。
 ただし、これは刺してほんの少し血を出すための針です。穴が開いてはいないので、薬剤を注入することはできません。残念ながら、風邪を引いたときの打つ注射には使えないんです。

(関西大学青柳研究室撮影、無断転載禁止)

困難な道だからこそやり甲斐がある

「痛くない注射針」の開発は、世界中のメーカーがしのぎを削っている。大手医療機器メーカーは直径が0.18ミリで薬剤の注入できる注射針を開発、ヨーロッパへの輸出も始めた。同じく日本の大手金属加工メーカーは1000分の1ミリ単位で金属を滑らかに加工する技術で、痛みの軽減に取り組んでいる。一方、青柳先生は針の細さと同時に、蚊と同様に3本の針を連動させるシステムの開発に挑戦中だ。どんな薬剤の注入にも利用できる無痛針――その完成は容易ではないが、青柳先生はじめ多くの研究者・技術者の努力によって、いつか実現できるかもしれない。

 詳しくは触れませんが、レーザー加工など特殊な技術を使って、現在0・1ミリの中空針(血液の採取や薬剤の注入が可能な針)の製造には成功しています。さらにもうひと工夫で0・03ミリを実現できるところまできています。0・03ミリは、蚊が血を吸う上唇と同じ太さ。これで、そうとう痛みを取り除くことができるはずです。
 しかし、穴が細いと液体は通りにくくなるんですよ。必要な薬剤を身体の中に入れるのにとても時間がかかり、その分、患者さんへの負担が重くなる。細くすればすべて解決! というわけではないんです。もちろん、細い中空針にも十分利用価値はあって、たとえば歯医者さんなどでの麻酔などに利用できると考えています。極細の針に少しだけ麻酔液を入れておき、それを歯茎に刺す。刺した周囲だけ痛みを感じなくなるようにしておいて、そこに本格的な麻酔を注入して治療を始める、といった具合です。他にも、絆創膏のようなものに針がついていて、ジワジワと身体の中に薬剤を入れていくといったことも可能かもしれません。
 上の写真は、市販のステンレス製の針と私たちがつくった針との比較です。どれだけ細いものなのか一目瞭然でしょう。いずれにしろ、本格的な無痛針にするためにも、写真にある3本の針が連動するようにしなくてはいけません。蚊のシステムを解明し、それをマイクロマシンで実現する。なかなか困難な道ですが、とてもやり甲斐を感じています。
 先ほども少し言いましたが、この「困難な道」に向かっていくところがサイエンスの面白い部分なんです。よく「小学生のときの理科は楽しかったけど、中学生になったらそうではなくなった。高校の物理や化学などはさらに・・・・・・」という話を耳にしますが、大学に入り、研究室というところに所属するようになると、また小学生のころのようなワクワク感が戻ってくる。教科書などない、手本になるようなものもない、いままで学んできた知識を総増員し、仲間とも協力しあって、ひとつのことに向かってまい進する。ロマンのようなもの、といったら言いすぎでしょうかね(笑)、そんなところが科学の研究にはあります。
 私の研究分野などは、とても5年や10年で実現できるようなものではありません。しかし、確実に人の役に立ちます。一人でも多くの若者に興味をもって欲しいですね。期待しています。
《文=WAOサイエンスパーク編集長 松本正行》

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